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『機関車トーマス』を読む

研究・考察
03 /06 2015
 『きかんしゃトーマス』の原作『汽車のえほん』シリーズの第2巻『機関車トーマス』は、作品中に初めて主人公トーマスが登場したことで名高い一冊です。原作者オードリー牧師が考案し、第一の読者であるクリストファーの命名によって誕生したタンク機関車トーマスが物語のキャラクターとして初めて具現化された巻であり、トーマスシリーズの原点はここにあると言っても過言ではありません。
 先日、ソドー島に来島して間もない頃のトーマスを描いたテレビシリーズ最新長編作品『The Adventure Begins』(以下TAB)が米国で公開されました。ストーリーに多少の差異はあれ基本的には『機関車トーマス』並びにそれを映像化したテレビシリーズ初期エピソードの内容をオマージュしたものであり、近い内に我が国でも公開されることと思います。また、これを機に改めて原作2巻を読もうと考える方も多いことでしょう。そこで今回は、文学作品『機関車トーマス』の内容について徹底的に考察しようと思います。以下ネタバレ注意。



 まずはこの巻が作られた経緯を振り返ってみましょう。
 1942年にウィルバート・オードリー牧師が息子クリストファーに語った機関車の物語は牧師の妻マーガレットの勧めでエドモンド・ウォード社へ持ち込まれ、『3だいの機関車』として1945年に出版されると好評を博しました。そこで牧師は続編の執筆を決めます。彼が1942年のクリスマスに製作し息子が「トーマス」と名付けた玩具のタンク機関車がこの続編『機関車トーマス』の主人公。出版社が挿絵画家として新たに起用したレジナルド・ペインは、玩具のトーマスの姿を現実の鉄道に存在する機関車に近い形にアレンジして挿絵を描きます。こうした経緯で発表されたシリーズ第2巻『機関車トーマス』は1巻を上回るほどの大人気となりました。
 後に挿絵画家となったレジナルド・ダルビーはペインの絵を基にして挿絵を描き直し、その中で作品史上最も有名な「貨車を牽いてトンネルを抜けるトーマス」の絵も生みました。また、1984年に放映が開始されたテレビシリーズ『きかんしゃトーマス』では、第1,5,6,7話でこの巻のエピソードが映像化されました。

 作品の背景が分かったところで、次はこの巻の大まかなストーリーを確認するとしましょう。
 まず第1話「トーマスとゴードン(なまいきなトーマス)」。駅の構内で客車の入れ替えをしている小さなタンク機関車トーマスは、ゴードンのような大きな機関車に悪戯を仕掛けるのが大好きでした。しかしある日、ゴードンから仕返しとして急行列車の最後尾に連結されたまま猛スピードで長距離を走らされ、トーマスはくたくたになってしまいます。因みに、この話はグレート・イースタン鉄道(GER)の郊外向け列車がリバプール・ストリート駅で実際に起こした事件を基にしています。
 続いて第2話「トーマスの列車(あわてもののトーマス/トーマスのしっぱい)」。客車の入れ替えばかりさせられて退屈なトーマスはある時、病気のヘンリーの代理として始発列車を牽けることに。しかし、あまりに興奮していたトーマスは客車を置き去りにしたまま信号所まで気付かずに走ってしまい、後でそのことをみんなに笑われたのでした。この話もGERの郊外列車で起きた事件がベースになっています。
 次に第3話「トーマスと貨車(トーマスのさいなん)」。客車を押す仕事に飽きていたトーマスに対し、親切なエドワードは仕事の交換を持ち掛けます。エドワードの代わりに貨車を牽くことになり大張り切りのトーマスでしたが、厄介な貨車達の扱い方を知らなかったためにゴードンの丘で暴走してしまい、何とか駅の操車場で止まったもののトップハム・ハット卿から大目玉を食らったのでした。当時イギリスの鉄道に多かった貨物列車の暴走を描いた一話。
 そして第4話「トーマスときゅうえん列車(ジェームスのだっせん)」。ある日、操車場で働いていたトーマスはジェームスが貨車に押されて暴走しているのを目撃。間もなくジェームス脱線の知らせを聞いたトーマスは救援列車を繋いで事故現場へ急行し、復旧作業を手伝いました。この功績が認められ、トーマスはトップハム・ハット卿から二両の客車と専用の支線をプレゼントされることになったのです。なおジェームスの暴走は、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(LMS)のウィランブラッチという車掌がリッキー・インクライン(ゴードンの丘のモデルとなった丘)の近くで体験した暴走事故が元ネタのようです。

 では、これらの物語の細かい設定について見ていきましょう。
 まずは時代設定から。原作第2巻劇中の時代については、1923年頃という説と1946〜47年頃という説の二つがあります。前者はゴードンやジェームスが来島した時期、後者は牧師が2巻の物語を創作・発表した時期ですね。2巻に限らず原作初期の数巻の時代設定については1920年代なのか1940年代なのか、という議論が続いており、どちらが正解なのかは今なお分かりません。この問題に関してはヘンリーの改造年やパーシーの来島年、トップハム・ハット卿の呼称や第二次世界大戦の存在など様々な事象が引き合いに出されます。しかし少なくともこの2巻のことだけを考える場合、1923年と1946〜47年を比較してより年代の早い1923年を劇中の時代設定とした方が、1915年製であるトーマスの未熟さの理由を表す文学的真実として成立するのではないか、と私は考えます。もっとも、劇中の年代が1923年と1946〜47年のどちらであったとしてもトーマスのキャラクターには矛盾の生じる部分が出てきます。これについては後述。
 次に、2巻の舞台設定について。本巻では収録されている四話全てにおいて、仕事場が一ヶ所に固定されているトーマスがひょんなことから日常を飛び出して非日常的な別の場所まで冒険する、という形式が取られています。第1話では、ヴィカーズタウン駅からゴードンの仕返しによってバラフー駅まで(テレビ版及びTABではナップフォード駅からウェルスワース駅まで)。第2話では、同じくヴィカーズタウン駅からヘンリーの代理として信号所(場所不明)まで(テレビ版及びTABではナップフォード駅から信号所(場所不明)まで)。第3話では、ヴィカーズタウン駅からエドワードの代理としてウェルスワース駅まで(テレビ版及びTABではナップフォード駅からマロン駅まで)。第4話では、第3話のラストで新たに仕事場となったウェルスワース操車場からジェームス救援のため事故現場(恐らくナップフォード〜ウェルスワース間)まで(テレビ版ではティドマス操車場から事故現場(恐らくエルスブリッジ〜ウェルスワース間)まで、TABではナップフォード操車場から事故現場(場所不明)まで)。なお第2話のトーマスは終盤で客車を繋ぎ直してから信号所より先の方までも走ったと考えられますが、その部分は物語の主軸ではないため除外します。さて、こうして見たときに、テレビ版やTABでは全体的に舞台が大きく変更されているためにまず気付くことはありませんが、原作での舞台の変遷をよく見るとトーマスの行動範囲が東端のヴィカーズタウンから西へ西へと徐々に拡大されていることが分かります。最終的に第4話のラストでトーマスが西端のナップフォード駅に始まる支線を任されている点も考慮すると、これらは全てトーマスの成長を地理的に表現するという考えの下に牧師が意図して用いたテクニックなのかも知れません。勿論それは私の憶測でしかありませんが、仮にそうだとしたらリアリストの牧師らしい手法と捉えることができますね。
 さて、今度は主人公トーマスの出自・経歴といった設定に迫っていきます。まず、トーマスがソドー島に到着した年はエドワードと同じ1915年という設定になっています。これは、彼のモデルになったロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道(LB&SCR)のクラスE2が1913〜16年に製造された機関車であることが大きく関係していると思われます。また、ソドー鉄道ことノース・ウェスタン鉄道(NWR)の開通年が1914年であることとも関わっているのでしょうか。更に、ヘンリーの来島年が1922年、ゴードンとジェームスの来島年が1923年とされていることからNWRの機関車の車体番号は来島順に付けられたものであることが分かり、これもまたトーマスが1915年に来島した機関車であることの証拠となっています。トーマスの製造年は不明ですが、上記のような事情から1913〜15年頃と考えられます。同時期に来島したエドワードの前任鉄道がソドー島に近いファーネス鉄道(FR)だったのに対しトーマスのLB&SCRはソドー島からかなり離れていました。これについて『汽車のえほん』の二代目著者クリストファーは、自身の著書『Sodor: Reading Between the Lines』の中で「第一次世界大戦の真っ最中に働いていたトーマスは戦争の混乱により手違いでソドー島に送られてしまった。その後トーマスの機関士と助手はいずれも島の女性と結婚してこの地で生きていくことを決意したため、トップハム・ハット卿は名目上の僅かな料金を支払いトーマスを購入した」という興味深い噂話を挙げて説明しています。この話が本当だとすれば、トーマスは製造されてすぐソドー島に送られたわけではなく、多かれ少なかれ来島前に別の場所で働いていた期間があったということになります。しかしここで注目したいのが2巻第3話の終盤。トップハム・ハット卿の「君は、貨車を牽くのは初めてかね」との問いに対し、トーマスは「はい」と答えています。2巻の時代設定が1923年と仮定したとしても、1913〜15年に製造されてから8〜10年もの間、入れ替え用タンク機関車が一度も貨車を牽いたことがないなどということが果たしてあり得るでしょうか。トーマスがソドー島に来る前どこで働いていたかは不明ですが、モデルになったLB&SCRクラスE2の多くと同じように入れ替えや短距離貨物輸送を行っていたか、はたまた前述の噂話を重視して第一次世界大戦の軍事物資輸送などを担当していたと考えるのが妥当でしょう。いずれにせよ、それまで貨車を牽いたことがなかったとするには無理がある仕事です。「貨車を押したことはあるが牽いたことはない」「入れ替えの一環として貨車を牽いたことはあるが貨物列車として牽いたことはない」などと強引に解釈することもできないことはありませんが、2巻の第1,2話でトーマスが客車の入れ替えしかしておらず貨車を扱う描写が一切ない(ただしテレビ版及びTABの場合は貨車を扱う場面もあります)点を見ると「貨車を牽くのは初めて」という台詞が誇張表現であるようにも思えません。貨車に関する部分に限らず、2巻の中にあるトーマスの未熟な言動の数々はとても製造8〜10年目かつ来島8年目の機関車のそれとは考えにくいものがあり、製造されてすぐソドー島に来たばかりの新米機関車だと考えた方が遥かに自然です。現に1巻ではトーマスが登場していないばかりか「エドワードが一番のチビ」と称されており、1922年に来島したヘンリーや1923年に来島したゴードンが登場しているにも関わらずトーマス来島より前の出来事であるかのように見えます。ともすると、トーマスは当初1915年に来島したという設定ではなかったのではないか?と勘繰りたくなります。そこで、そもそも1913〜16年に製造されたクラスE2がトーマスのモデルとして選ばれた経緯を知らなければなりません。クラスE2をトーマスのモデルと決めた人物についてはオードリー牧師という説とレジナルド・ペインという説の両方がありますが、ブライアン・シブリーによればクラスE2はペインの独断でモデルに選ばれた機関車であるとのこと。ペインの描いたトーマスを初めて見た際、牧師はクリストファーにあげた玩具を基に自分が描いたトーマスのスケッチとあまりにかけ離れた姿であったため、不満を感じたそうです。彼は後にペインのトーマスが実在の機関車をモデルにしていることを知って感心したようですが、ともあれトーマスのモデルがクラスE2になったのは牧師の意志によるものではなかった模様。また、牧師が2巻の草稿を完成させたのが1945年6月であるのに対し、エドモンド・ウォード社がペインを挿絵画家として起用したのは同年11月。従って、牧師はトーマスの物語を創作した時点ではモデル機がクラスE2になるとは想定しておらず、トーマスがクラスE2よりももっと新しい機関車であるという設定で執筆していた可能性が高いと同時に、トーマスが1915年に来島したという件についても後付け設定である可能性が高いと考えられます。もしもペインの描くトーマスに牧師の意志が反映されていたらどのような機関車になっていたか、などということは今となっては知る由もありませんが、例えば牧師がトーマスのモデルとして考えていたかも知れないと目される機関車にグレート・ノーザン鉄道(GNR)のクラスJ23がいます。この機関車は1913〜22年及び1924〜39年にかけて製造された機関車であるため、もしこの機関車をトーマスのモデル機として設定したならば、1922年頃に製造されたということにすれば製造直後にソドー島に送られたためにまだ未熟である、という自然なストーリーにすることが可能でした。以上のようなことから、『汽車のえほん』という作品全体の設定としてはトーマスは1913〜15年に製造され1915年にソドー島に来島した機関車ということになっていますが、こと2巻に関して言えば、原作者はトーマスを製造されて間もなくソドー島に送られた経験に乏しい機関車としてイメージしていた可能性が高く、読者である我々もそれを考慮した上で本巻を読むのが望ましいでしょう。その意味では、トーマスがヘンリーやゴードンより後に来島したという設定でTABを制作したテレビシリーズスタッフも原作の内容を正しく理解していたのだと見ることができるかも知れません。因みに、先ほどトーマスの来島が1915年であることの根拠として車体番号の話を挙げましたが、トーマスの番号が1である理由について牧師は「絵を描いた経験が殆どない自分が玩具のトーマスに容易に描ける数字が1だったから」と語っています。よって、NWRの機関車の車体番号が来島順であるというのもあくまで半ば偶然的に定められた後付け設定であると考えられます。余談ですが、TABではトーマスの車体番号が1であることについて全く別の理由が示されていましたね。

 『汽車のえほん』シリーズの各巻は特定のキャラクターや路線といったテーマに沿ってエピソードを描くのがお約束になっていますが、その中でも第2巻『機関車トーマス』と第3巻『赤い機関車ジェームス』は、一つのキャラクターの内面的成長に特に重きを置いた作品であると私は考えています。というわけで今度は、トーマスの成長を描く一つの物語において各キャラクターやエピソードが果たしている文学的な役割について考察してみようと思います。
 シリーズ中でも最初期の作品であるとは言え、2巻の劇中には主人公トーマスを取り巻く複数のキャラクターが登場します。しかし、主要キャラクターの中でトーマスとの会話が描かれているのはエドワード、ゴードン、トップハム・ハット卿(ふとっちょの重役)のみで、それ以外は機関士、信号係、客車、貨車といったモブキャラクターばかりです。ヘンリーやジェームスは登場こそするものの、不運によってたまたまトーマスに冒険のきっかけを与えるという役回りでしかありません。本巻以降トーマスと行動を共にすることになるアニーとクララベルも、この巻では名前すら明かされません。TABではこれらのキャラクターも含めた他キャラクターとトーマスとの関わりが原作よりも深く掘り下げて描かれている点が見どころとなりますが、ここではその話は置いておくとしましょう。さて、上記のように本巻でトーマスと関わるキャラクターは意外に少ないため、彼の成長に影響を与えているキャラクターは必然的にエドワードとゴードンとトップハム・ハット卿に限定されます。
 作品中におけるエドワードとゴードンの役割に着目すると、2巻の内容は1巻『3だいの機関車』、3巻『赤い機関車ジェームス』、5巻『やっかいな機関車』にも通じている部分があると分かります。と言うのは、1巻の後半二話、2巻の四話、3巻の四話、5巻の後半二話の主役をそれぞれヘンリー、トーマス、ジェームス、パーシーとして見たときに、四台はいずれもエドワードの協力を得て仕事をすることにより大きく成長し、そしてラストではあまり仲の良くなかったゴードンとの和解を果たすという共通した物語を辿っているのです。ここからはかなり私の主観が入ってしまいますが、これら初期の作品では、優しさ、賢さ、弱さの象徴として仲間を下から支えるエドワードと、傲慢さ、頼もしさ、強さの象徴として仲間の前に立ちはだかるゴードンとの対比が物語の大きな軸になっているのではないかと思います。現にシリーズで最初に主要キャラクターとして登場したのはこの二台ですし、特に丘で立ち往生し「無理だよ」と言い張るゴードンを「やるさ」と言って押すエドワードという1巻第2話の構図はまさにこの対比をそのまま表していると言えるのではないでしょうか。エドワードとゴードンを描いたこのエピソードがオードリー牧師の少年時代の体験からインスピレーションを受けたものである、というのは有名な話であり、またキャラクター的にはエドワードのモデルが牧師の息子クリストファー、ゴードンのモデルが牧師の近所に住んでいたガキ大将ゴードンとされています。牧師は「劇中に登場する中で一番好きなキャラクターは」との問いに対する答えを明言していませんが、もしかするとエドワードとゴードンには他のキャラクター以上に強く感情移入をしていたのかも知れません。また、機関車達を纏めるトップハム・ハット卿というキャラクターはエドワードの優しさとゴードンの傲慢さを兼ね備えたものであるように思えますし、そのためか1巻の前半二話にはトップハム・ハット卿は登場していません。特にエドワードは人格が完成されていて信頼が厚いこともあってかその後のエピソードでもトップハム・ハット卿との関わりが比較的少なく、逆にゴードンは鉄道内で最も重要なポストにいるためかトップハム・ハット卿との関わりがどちらかと言えば多めです。接し方は違えど、トップハム・ハット卿がエドワードとゴードンの両方を重視し鉄道に欠かせない存在と考えていることが窺えます。エドワードとゴードンは基本的に仲良しとして描かれることは殆どなく、ゴードンは一方的にエドワードを見下しています。エドワードも時にゴードンをからかうことがありますが、大抵は彼に苦言を呈することはあまりしません。こうした微妙なバランスの上に彼ら二台の関係は成り立っていると考えられます。2巻の第1話でゴードンは自分を揶揄したトーマスに仕返しをしますが、これは恐らく、今まで自分の言動に一切文句を言うことがなかったエドワードとは対照的に自分の仕事のやり方を否定してくるトーマスの存在をゴードンのプライドが許せなかったためではないかと思います。しかし、そのトーマスがいなくなってから5巻のゴードンはいっそう傍若無人となってジェームスやヘンリーと共にストライキを起こし、更にエドワードの車輪が黒い(=黒い足=スト破り)、すなわちエドワードが自分のやり方に反抗していると見做したことで彼との均衡が崩れ、流石にトップハム・ハット卿も彼らの内輪の問題に介入せざるを得ない状態となりました。このような点を踏まえると8巻の内容もまた興味深いものに思えてきますが、話題がかなり2巻から逸れてしまいましたので話を戻します。
 とにかく、2巻でのトーマスの成長は他の機関車とよく似た軌跡を辿っており、これはエドワードとゴードンだけでなくトップハム・ハット卿に注目した場合についても同じことが言えます。1巻のヘンリーも2巻のトーマスも3巻のジェームスも、最初はトップハム・ハット卿からあまり期待されておらず失敗して罰を受けたりもしますが、最後には名誉挽回して役に立つ機関車として認められます。例えばトーマスの場合、まるで第2話の中盤で初めてトップハム・ハット卿に存在を認知されたかのように描かれています。第3話でも貨車の牽引に失敗して叱責を受けます。しかし、第4話の冒頭でトップハム・ハット卿はトーマスに対して期待を寄せ始めます。その後、トーマスはジェームス救援の功績により支線を与えられるわけですが、何故トップハム・ハット卿は第4話になって急に失敗続きのトーマスに期待するようになったのでしょう。本文中では述べられていませんが、ウェルスワースの操車場で二、三週間働くことにより車両の扱い方を覚え、一人前の機関車に近付いてきたからでしょうか。また、第2,3話の事件を経てトップハム・ハット卿がトーマスの「世界を見たい」という願望に気付いたためとも考えられます。ともあれ彼は第4話冒頭の時点でトーマスの技能ないし心情をある程度理解していたと考えることができ、ひょっとするとジェームスの事故が起きるよりも前からトーマスに支線を与えることも決めていたのかも知れません。余談ですが、トップハム・ハット卿が終盤でトーマスに与えた支線はティドマス・ナップフォード・アンド・エルスブリッジ鉄道(TK&E)が前身であり、この鉄道は若き日のトップハム・ハット卿が技師として働いていた鉄道です。こうした設定も、彼のトーマスに対する期待の度合いを表しているように思えますね。
 では、エドワードやゴードン、トップハム・ハット卿との交流の中でトーマスに齎された成長の具体的な経過を見てみましょう。まず、初め自分が一番の働き者だと思い込んでいたトーマスは、自分の退屈な生活に不満を感じてゴードンのような大きな機関車を出し抜こうとしますが、ゴードンの列車に付いて走ったことで「しっかり働くってどんなものか」を理解し、同時に自分だけが特別な存在ではないということを実感します。しかし、それまで出たことのなかった駅の構内から出て長距離を旅したことにより、一方でゴードンのように自分の列車を牽きたいという願望を抱くようになりました。ヘンリーの代理として客車を牽くことになるも、失敗して笑い者になったことで今度は客車よりも今まで牽いたことがない貨車を牽いて外の世界を見に行くことの方に希望を見出し始めます。ところが、エドワードの代わりに貨車を牽いたことで貨車が如何に厄介な存在であるかを知り、エドワードのように貨車を熟知した機関車に憧れを抱くと共に、トップハム・ハット卿に教えられたような「本当に役に立つ機関車」になりたいという思いを募らせ精魂を込めて貨車の扱い方を学ぶようになりました。自尊心や好奇心よりも奉仕の精神を重視するようになったわけです。操車場で入れ替えの方法を身に付けた頃、貨車に押されて暴走するジェームスを目撃。この時点で貨車を扱うことの大変さを知り尽くしていたトーマスは迅速にジェームスの救助に向かい、これによってトップハム・ハット卿から模範的な「本当に役に立つ機関車」になったことを認められ支線をプレゼントされるといった流れです。
 さて、この作品が書かれた当時、オードリー牧師本人や周囲の人々はトーマスの物語をどう見ていたのでしょうか。牧師が2巻の草稿を書き上げた1945年6月、彼の執筆活動に協力していたエージェントのエディス・レイ・グレゴーソンはその内容を、愉快で1巻と同じくらい良い作品だと評しました。しかしながら彼女は、作中の四話はどれも自分の行動が制限されていることに不満を感じたトーマスがそこからの脱出を試みるという同じストーリーの変形でしかなく、それならばトーマスの「自由に対する欲求」が本巻のテーマであるということを明確に示すべきではないかとも指摘しました。これに対し牧師は、四話がどれも同じ一台の機関車に関する物語であるということは認めるが各話のテーマは決して同じではないとし、作中におけるトーマスの成長の過程について自らが思うところを綴りました。(※意訳あり)

私の考えでは、トーマスは悪戯をすると必ず罰が下るということに気付いてから操車場での仕事に不満を感じるようになる。そして次の二話で、彼が脱出を試みる様を描いている──一度目の試みは失敗する。二度目の試みは成功するが、暴走という危険なものでしかない。第4話では彼は真面目に生活を送って成長し、支線の獲得という「細やかな独立」によって報われるのである。
こうしたトーマスの性格の向上は、私のようにずっとトーマスと一緒に生きてきたわけではない人達にとっては心を打つものではないだろうと思う──けれども、彼の「心理」に関する研究は子供向けの本において必要不可欠なものだろうか?


本巻のテーマを読者に明示するため、グレゴーソンは自由や変化への欲求がトーマスの重要な個性であることを前書きで述べるよう牧師に提案しましたが、牧師はその意見をあまり重視することなく、我が子クリストファーへの手紙という形式で前書きを記しました。一方グレゴーソンは牧師の意見を聞いても納得がいかず「あなたの書いた四話が『どれも同じ一台の機関車に関する物語』であることは問題点ではなく寧ろ長所であると言っても過言ではないが、四話全てにおいてトーマスが根本的には同じことばかりしているのが問題だ」と主張し一歩も譲りません。頑固な牧師に一度決めた考えを変えさせることは不可能だと彼女は分かっていましたが、それでも「あなたが言ったようにトーマスの成長を詳しく伝えたいのであれば、物語自体に何らかの改変や追加を施す必要があると思う」と述べました。彼女は、同じような内容の話を四回も繰り返しては出版社による本巻の評価が落ちるのではないかと危惧していたのです。しかし、牧師は何と言われようと決して自分の物語を変えようとはしませんでした。ブライアン・シブリーは、もしも牧師が自分の考えを曲げてグレゴーソンの意見を取り入れたとしたら『機関車トーマス』は酷く説教じみた話になっただろうと推測しています。これは私の憶測でしかありませんが、この作品は「どんなに失敗しても名誉挽回することができればスクラップにはされない」という牧師の美学が根底にあるからこそ成立した物語なのではないでしょうか。本作中で度重なる一回一回の失敗を経て、主人公トーマスは確実に少しずつ成長しています。それは出版社や一般の読者の目には分からないほど小さな成長ですが、だからこそリアリティに溢れていてフィクション特有の説教臭さを感じさせないのが本巻の強みであるとも言えましょう。役に立つ機関車は一日にして成らず。その教訓を小さなタンク機関車の生き様を通して描くことによりクリストファーを始めとする子供達の共感を得たからこそ、世界一有名な機関車トーマスは今なお世界中の子供達に夢を与え続けているのでしょうね。



参考資料

□文献
○『汽車のえほん(The Railway Series)』ウィルバート・オードリー著
・第1巻『3だいの機関車(The Three Railway Engines)』
・第2巻『機関車トーマス(Thomas the Tank Engine)』
・第3巻『赤い機関車ジェームス(James the Red Engine)』
・第5巻『やっかいな機関車(Troublesome Engines)』
○『The Thomas the Tank Engine Man』ブライアン・シブリー著
○『機関車トーマスと英国鉄道遺産』秋山岳志著

□映像
○『きかんしゃトーマスとなかまたち(Thomas and Friends)』ガレイン・エンターテインメント及びヒット・エンターテインメント制作
・第1話「トーマスとゴードン(Thomas and Gordon)」
・第5話「トーマスのしっぱい(Thomas' Train)」
・第6話「トーマスのさいなん(Thomas and the Trucks)」
・第7話「ジェームスのだっせん(Thomas and the Breakdown Train)」
・第8話「ジェームスのあやまち(James and the Coaches)」
・第23話「きたないきかんしゃ(Dirty Objects)」
・長編第10作『The Adventure Begins』(邦題未定)

□ウェブサイト
Thomas the Tank Engine Wikia
The Real Lives of Thomas the Tank Engine
Puff Puff THOMAS!
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Konkon

どうも管理人です。
きかんしゃトーマスが好きなだけの一般人。よろしくお願いします。